◎善哉善哉と神様が仰ってあるに違いない合楽のご教話。「善哉」とは神仏が人間に下されるおほめの言葉と字引きにある。昨日、今日の御理解をおかげの泉にと思った時に下さったお知らせである。合楽で説かれる教えは、成程神様が善哉善哉と仰せられるであろう。神へのお礼ぞと言われる真の信心をさせるばかりのお話であり、イメージアップをされた信心によって、真実人間が人間として助かる。しかも限りないいつまでも尽きぬおかげの受けられる手立てを話にして聞かせてあるのである。だからそれを聞かせてあるのである。だから頂く者も、そうだと信じて実験実証し体験を頂いて人にも伝えて行けれる信心内容となって来ねばならない。
直方からお参りされる山本さん。お参りを済ませて帰ろうとしたら、車のガラスが粉みじんに砕かれていた瞬間。「ああ、神様からのプレゼントを頂いた」とおかげを実感されたという。普通ならどうして、誰がこんなことをと思おうが。いつも合楽理念の実験実証に心がけていると、そういう不思議な心持ちも頂けて来るもの。合楽で信心する者、せめてそういう時に有難いとまではいかなくとも、神様を身近に感じておれる教えへの取り組みが常日頃からなされておらねばならない。おかげへの切実心を燃やすなら、そういう心の受け物作りへの切実心も燃やし、善哉善哉と神様とお礼の言い合えるような世界に住みたい。

昭和五十六年九月三日 朝の御理解


X御理解 第六十一節 神より金光大神に、いつまてらも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。


合楽の場合、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと言われますが。合楽で皆さんが頂いて下さるお話は全て真の信心をさせて頂く手立てばかりだと思うのです。同時に、所謂真の信心ですからお徳が受けられます。おかげが受けられます。所謂真の信心には真のおかげ、真の徳が受けられます、ね。その真の信心をさせる手立てを、ここでは合楽理念というふうにまあ申します。
ですから合楽理念を頂き、実験実証していく所から、昨日の御理解から申しますと。今まで助かりようのないイメージからね、助かられる、人間が人間らしゅう助かって行けれるのは、真の信心によるのだということのように、そのイメージが変えられていく。そこに助かる糸口というか、手立てが説かれるのですから。それを一つ本気でやはり行じなければいけません。
最近頂いております。喜びに喜んでとか、喜びに勇みを付けてという。これはね、頂いたから聞いたからというてすぐ出けるものぢゃありません。もう問題は、本気にその真の信心にならせて頂こうと精進する。その精進していく中にいつの間にそれが自分の身に付いたかと思われるような。まあ云うならば、思いもかけない有難い心が開けて来るんです、ね。
普通でなら苦しいとか、普通でなら腹が立つとか、普通でなら血の涙が出るように情けないとかといったような事の中に、よしあってもです。血の涙が有難涙に変わって来る程しに、これは真の信心を願い求めて、それに実験実証して行く以外にないです。そこからね、あのそういう不思議な心が頂けて来るのです。云うならば、真の信心によって次元の違った世界に住むことが段々出けて来るようになるという事なんです。
%1昨日、一昨日でしたが、直方の山本さん、皆さんもご承知のように、それこそ直方から合楽に。毎日毎日あの熱心に日参をされます。そしてお茶、私が食事時分までおられます。居ってこれは絶対。必ずどんなに例え大雨、大風というような時でも、もう何とかしてやっぱ見えられる。その執念の様なものを燃やしておられる方です。おかげを受けられるです。山本たか子さんといいますが。
%1昨日一昨日、ここにお礼に来られました。というのは、自動車で見えられますから、あの帰ろうと思われて、まいりました所が自動車の窓ガラスが割られて、もうちんぢんにあの割られて車の中に散らばっておった。それを見た瞬間おかげを受けたと思われたそうです。こりゃ神様からのプレゼントだと思われたそうです。
%1どうでしょう皆さん。ここの駐車場に、誰がこんないたずらしただろうか。とか「あら」とかまあ極端に言うと、これ程信心するのに、教会に参って来ておってこんな事があってというふうに思うかも知れませんね。信心、信薄き時には。所が山本さんの場合は、見た瞬間です。おかげを受けた、神様からのプレゼントだと、まあ思うたと言われるのです、ね。
%1帰って修理に出された。そしたら一万一千百円であった。料金が、もういよいよ持って有難くなって来たと言うんです。分かるですか、皆さん、ね。一万一千百円と、一、一、一ということです。私は合楽でですね。云うならばリズムに乗った信心ということが言われますが、リズムに乗って行っとるとです。なかなか人間というものは、やはり叩かれりゃ痛いけんで、あー痛ち言うわけですよね。けれども、あー痛を言う前に済みませんとか、有難いとかと、有難うございます。
昨日、研修ん時にでしたが。その頂き心というのがどういうふうに頂くかと。もうそりゃ一番最高なのは、今の山本さんぢゃないですけれども、おかげを受けたと直感した。そしてこりゃ神様のプレゼントだとこう思うたと、ね。
例えば昨日の御理解を頂くと云うならば、お互いが難儀と思うておる。あれは天地の親神様のおかげ下さろうとする働きかけであり、云うなら神のウインクだとこう言う、ね。本当にそれをウインクだと感じれるかどうか。その苦に苦が又重なるような泣き面に蜂と普通で言うなら、いうぐらいの時にですね、神の愛撫だと受けて感じれれるだろうかとね。
見事に山本さんは感じておられる訳、おかげと感じられた。神様のプレゼントだと感じられた。だからおかげ、段々おかげ受けたい受けたいというて皆が参って来るけれども。段々合楽の信心が分かってきたら、もうおかげ受けたいおかげ受けたいぢゃなくてね。どうしても、云うならば先日からあの光昭の西瓜の話しぢゃないけれども。修行と一生懸命参っております、修行しとります。その修行はどこまでも丸い西瓜のような丸いおかげの受け物、和賀心を作るために参って来とるんだ。
それで何年たったっちゃおかげ受けたい、おかげ受けたいばっかりで。成程おかげを受けなんこつはお取次ぎを頂いて、もうそれこそ牛馬のことに至までと仰せられるのだから、お取次ぎを頂いてお願いせんならんけれども。お願いをしたらもう貴方に任せる。そして神様が下さった時に、どっこいと受けられる受け物をね、作らせて頂く事の修行には入らなければ嘘です。合楽の場合は。それがいつまっでん、どうぞおかげ頂きたいと思います、おかげ頂きますというようなことでは私は合楽で信心頂いてる、稽古しとる値打ちはないと思う。この事を通して、云うなら西瓜のように丸い心を頂かせて下さい、もうそれだけでいいのです、ね。
そこに期せずして自分の心の中にどうしてこういう心が。はあー、おかげと感じれるだろうか。いや神様のこりゃプレゼントだとして受けられる心がいつの間に出けただろうかというように出けて来る。おかげ、おかげばっかり言うとってはね。いつまでだってもそういうそういう心が開けて来んです、ね。金光大神にいつまでも尽きぬおかげを天地金乃神は下さってある訳ですね。神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげ、尽きぬおかげというのはね、限りないおかげ。その限りないおかげの頂けるためには、そん時、そん時願うておかげ頂くのぢゃなくてね。それこそ一人でに物が出けるような信心の力と徳を受けなきゃいけん。
受け物を作らなければ。受け物が出けるから、所謂、限りなくおかげの受けられる話をしてあるのです。おかげの受けられる限りなくおかげの受けられる話し。それでおしまい、病気が治りました。事が成就しましたという。そこで切れたようなおかげではない。尽きぬおかげと仰っておられる。それ、そういう話を金光大神は残しておって下さるのである。
%2そこで私は思うて頂きたいのですけれども。昨日、竹内先生が今度のおかげの泉のを。毎日、今日のがどうでしょうか、今日のがどうでしょうかというふうにまあ心に止まった御理解を、まあ原稿を送らなきゃなりませんから、いうてお願いしとりました。そしたら昨日、昨日の御理解ですね。所謂、イメージアップの御理解です。あの御理解を今度のおかげの泉誌にどうでしょうかと、こう申しますから、今日のは良いでしょうとまあ申しました。
%2そしたら又後から出て来てから。今日その研修にかかる前の御祈念の時に『神様にそのおかげの泉のことをお願いさせて頂いとりましたら、御心眼に善哉を頂いた』ち言う。合楽の食べるぜんざいです。と言うて来ましたから、あの私がおかげの泉は昨日ので良いかと言うた時に、今日のが良かろうと言うたのがそれなんだよと言うて、まあ話をしたことでした。
%2分かりましょうか皆さん。善哉というのを、すぐ字引きで先生引いてみた。そしたらね、人間の言詞(ことば)に仏様がおほめの言葉をなさる時に言われる言葉がぜんざいだそうですね。御心眼にゃ食べるあの小豆のね、ぜんざいのことを頂いたけれども。そのぜんざいをもじって、云うなら今日、今日の御理解をおかげの泉誌にとこう。そしたら神様からすぐ、云うならお許しを頂いて良かろうということであった、ね。
こりゃ私は日々思うんですけれどもです、ね。それこそ善哉善哉である。天地の親神様が合楽の話を、皆さんに聞いてもらっておる話を聞いて、毎日善哉善哉という。云うならば、あのもしお言葉を下さるなら、下さってあるというふうに思います、ね。それはどういう事かというとね。いつまでも尽きぬおかげの頂けれる話だからなんです。人間の話の中にもです。合楽の話を頂いて、今までおかげの受けられなかった考え方からイメージをアップして行けれるような話を頂くということなんです、ね
だから昨日の御理解を今度のおかげの泉にすることに致しました、ね。合楽の場合いつの場合でもそうなんです。月々の、ならおかげの泉などでもですね。神様が選りに選って、月に一回のあの御理解をまあ毎月出させて頂いとるわけですけれども神様が兎に角感心して下さる。ほめて下さる程しの内容を持っておるのが、私は合楽の御理解だと思うです。
だから皆さんがそれをね、信じてね、それを実験して実証していかなければ、ならそれを実証して行く時にです。兎に角表へ出て見て、車に乗ろうと思うたら、車のドアのガラスがちんぢんに割れておった。もうそれこそ「あら」とも、誰がとも思わなかった、ね。直感したのは有難いであった。神様がプレゼントを下さったというふうに実感した。修繕に出した、一万一千百円、もう兎に角有難い、間違いない神様のプレゼントであったことを気付かれて、翌日のお礼ということになったわけです、ね。
昨日の御理解のようにね。合格しても合格御礼なら、不合格であっても不合格御礼という信心が、いつの間にか身に付いて来たわけなんです。しかももう直感して。昨日研修の時に、そこんところをです。皆さんどげなふうに思うかと、いろんんな事があった時にその受け方というものが有難いおかげとして受けられるかと、ね。いろいろある。
「あら」と私は或る教会の大祭に参拝さして頂いた。私はどこへいっても一番正面で拝みますからよく分かるわけ。所が或る教会の先生が立ちあがんなさったら、しびれがいってから、バタッと倒れなさった。たら、その先生が言われるのが。傍ぢゃから聞こえるわけ。「ああ痛よ」ち言うち起きらしゃった、ね。皆さんならどうかち、私はその事を話して皆さんに言うわけです。そしたら恒行先生がこう言いました。おそらく私ならば、済みません。これが一番口に出るだろうと申しました。
皆さんがもし、例えば鴨居で頭を打ったとする。こぶが出けたとする。ああ痛よと言うて、その鴨居の方ば叩くような人がありませんでしょうか、ね。ああ痛と思うた時にゃ、私はね、それこそおかげ、神様の喜びのプレゼントば下さったというような頂き方が出来たら最高です。
勿論、三番目は「どうして」とこう思うけれども。或る修行生が答えてました。神様のご都合とこう頂くと。うん、そりゃご都合に間違いはなかばってん、そりゃ時間が掛る。どういうご都合ぢゃろうかと思うて、又思わにゃならん、ね。だから有難い、済みませんどっちかね。そしてこれ程信心するのにどうして頭打ったぢゃろうかとか、転んだぢゃろうかとかとか、こげな事になったぢゃろうかというようなら、もうこれは日頃おかげ、おかげばっかり言うておる信者氏子に間違いありませんです。
その事によって信心を頂こう力を受けよる。その体験が積んでいきよるなら絶対有難いが出るはず。それが血に肉になって来にゃならん。まあ有難いが出らんでも、済いませんくらいは出るような信心を頂きたいですね。
%3昨日、丁度三時の研修が始まった時に見えたと言う、初めて参って来た婦人があった。私が目が薄いから分かりませんもんだから。結局、研修が一時間かかりますから、一時間終わってからここに見えた。そしたら、三時から皆さんの発表やら、研修があっておるのを始めから聞かせて頂いて、もう本当に初めてで分からんけれども。金光様の信心の素晴らしさといったようなことを後で拝聴させて頂いたというてお願いされる事がです。
%3実は水子の供養をして頂きたいと思うと言われるのです、ね。赤ちゃんを流しとるわけ。だからそんなことは供養せんでもええですよと。供養ぢゃなくてただ心に掛るならお取次ぎ頂いてお願いなさったらいいですよ。成程それを私は、あの奨励するわけぢゃないけれども、お粗末になったということの、云うならお詫びだけしとけばいいですよ。
%3例えて言うなら、皆さんがお米を仕込みなさる時に、こうやって水流す時にお米が流れて外、所謂、下水の中に入って行くでしょうが。それを一つ一つ拾われんでしょうが。もうそれこそ天地の親神様のお米は、兎に角神様の手を八十八回もわずらわせるとるという程しの大事なものでも、ね。それを無駄に捨てたりというのではない。そういう、ならば時にです。云うなら、済みませんとお恵みの物をお粗末にして済みませんといゃそれで良い、ね。
%3子供の場合でも天地の親神様の側からご覧になれば、米一粒粗末にしたのと大して変わりはない、ね。都合で、なら子供を下したのなら、それこそ天地の親神様にせっかく頂いたお恵の物を粗末にしたというお詫びだけで良い。それをまるっきり金儲けの手立てにしとるところがある。水子地蔵とか、何々とかいうて人間の、云うなら心の呵責というのにつけ込んだこれは信心だと思うですね。
そういう間違ったことをです。云うなら金儲けの手段にしてです、おる宗教からです。昨日の御理解で言うと、はあ金光教という信心は素晴らしい事だなあと。今までその、その水子の事で心に掛っておってね。そしてやはり次々と良くない事やらがあったりすると。そういう事の祟りではなかろうかというふうに思うのは、云うならばそういう霊的な事やら信心に対するイメージがね。そのようなふうにあったイメージを云うなら、昨日ここへ見えた方はそういう事が一遍にアップ出けた。
気にかかる事ぢゃない、お粗末ご無礼な事ぢゃない。けれども、云うならば米一粒でもお粗末にしたことはお詫びをしなければならないように。お詫びをすればちゃんと許して下さるのですから、心配いりませんよち。そりこそ、ほっかりしたような顔で、今日は一時間先生方のお話を聞かせい頂いた上に、こういうおかげを頂いて本当におかげ頂いた。又これからもどうでも、あのお参りをさせて頂きたい。信心さして頂きたいと言うて帰られた。
人の心を助ける。そういう言葉を、もしここ後で天地の親神様が聞きござったとしたなら、それこそ善哉、善哉と仰るに違いないと思うです。人間が助かることのために合楽の話しはあるのです。所がね水子地蔵の地蔵でも作って供養して、供養料をもらって取るという。人間の、云うなら良心の呵責なんかにつけ込んだ、私は程度の低い信心だと思うですね。
それがね平然と当たり前のように出けるということぢゃ決してないです。いけない事はいけない。お粗末にすることは、お粗末にすることとして詫びれば許してやりたいのが親心と仰るのですから。その親心に縋っての信心。そこにイメージが変えられて行く時に、その婦人は助かったということになるでしょう。
今日は私は、合楽のお話は、もし神様がここで言葉を持って私の話を聞き終わった時に、それこそ必ず度々に善哉、善哉と仰っておられると私は思います。そういうお話を皆さんは、なら日々頂いておられるのですからね。始めて、ならおかげを頂きたいから参って来た。半年信心、一年合楽の信心が有難いということが分かって来たら、もうそこではおかげを頂きたいからお参りしよるとぢゃない。信心を頂かしてもらう事が有難いのである。
どんな場合であっても、即有難いという答えが出るような心の状態が変わっていく事が喜び、安心。それこそ丸い心を頂く事のために合楽通いをしておるんだと。そこには願わんでも、頼まんでもというようなおかげが頂けるのですけれども。そこには人間やっぱり痒ければ痒い、痛ければ痛いとお取次ぎを願わねば居られません。
今日もどうぞ商売繁昌を願わずには居られません、ね。けれどもね、願ったら私は後その事を受けられる受け物を、願ったことのおかげの受けられる受け物を作ることに専念することを合楽で説いておるのです、ね。金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくと仰るが。大坪総一郎におかげをいつまでも尽きぬおかげをです。
金光大神が頂いておられる御教えをこのように、云うならば深く伝えて下さるのですからね。そういう皆さんがおかげを頂いてそういう話を人にもして、人が助かるような状態になる時に、イメージが変えられる程しの、云うならば体験とお話をです。皆さんが人にも伝えていくようなおかげを頂いて頂きたいと思います、ね。
竹内先生が昨日、昨日朝の御理解を今月のおかげの泉誌にと言ったら。神様が善哉と仰ったね。うん、そりゃ適当だと、人が助かる話しだ今日の話しは。と、まあ言うて下さっておると、まあ頂かなければなりません、ね。皆さんのね、そのおかげを受けたいと言うその切実心は誰でもありますけれども。その切実心と同等にです。そのおかげの頂けれる受け物作りを頂きたいという、云うならば切実心も一緒に燃やしていかなければなりません。
只おかげを頂きたい方だけが強いようなことでは、いよいよん時にそりこそ、ああ痛よと言わにゃんです、ね。それではもう信心頂いとる値打ちがないです。せめて、なら鴨居で頭を打ったならばです。ああ痛よ、の前に済みませんと言うくらいなね。済みませんが出るくらいな心は本当に頂きたいと思います。本当なことは有難うございますと頂けれる心の状態を作っていくということ。
信心はそれです。金光大神が尽きぬおかげの頂けれる話をと仰っておられるそのままに、合楽では私の伝えるところ、いつまでも尽きぬおかげの頂ける話しだと私は信じて皆さんに伝えております。だから皆さんも又それを信じて受けて実験実証して下さらなければならんということになりますですね。どうぞ。